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食用ベターハーフ
by たま
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「なぁ、良いだろ? 俺と少し、遊んでくれよ」 

 ――面倒な事になった。エレンは己の進路に立ち塞がる男を見上げ、隠す事無く舌打ちをした。さり気なく周囲を見回したが背の低い草が一面に生えているだけの草原で、疎らに佇んでいる木々もその幹は身を隠すにはいかにも心細い。ゆっくりと動いた瞳が艶かしく見えたものか、前に立つ男は更に息遣いを荒くした。 
 面倒な事になった。深くフードを被り直しながら、エレンは男から逃れる手段を頭の中で組み立て始めた。 


 エレンが己の前世を確信したのは、まだ幼い時分だった。三つの巨大な壁に囲まれた狭い世界。巨人という人類の敵。それらを薙ぎ払う立体機動装置と一対の刃。変革の荒波に翻弄されながら生き抜いた一連の記憶全てを、エレンは今世成長すると共に思い出し続けていた。忘れたくないとエレン自身が願ったのか、忘却を許さない何ものかの意思が働いた結果なのか。真実は定かではないが、あの世界は今もエレンの傍らで息をしている。 

「なぁ、おい。無視するなよ。お前《淫魔》だろ」 
「…………」 
「ちょっと毛色は変わってるけど、まぁ、それも良いなぁ」 

 思考は熱に浮かされた不躾な声に遮られた。男の目は月明かりにも分かり易く欲に塗れている。愚鈍な仕草が更に苛立ちを増幅させた。こんな目に遭うのは一度や二度ではない。にも拘わらず、呆気なく進路を塞がれた自分に嫌悪にも似た怒りが湧いた。 


 前世において人間か巨人かを散々疑われたエレンは、何の因果か今世完全に「人でないもの」として生を受けた。 
 エレンは《淫魔》と呼ばれる種族の一人だ。《淫魔》は性交渉により他者の精気を取り込み、生きる為の糧とする。強大な力を持つ訳ではないが、その色香は時に相手の生命力を根こそぎ奪い去る程の蠱惑を放つ。故に《淫魔》を警戒する者は多い。逆に、至上の快楽を齎すと噂される《淫魔》との性交渉を望む者も、同じように多かった。 

 着膨れした服の下で腕を摩る。無用な誘惑をしないよう肌の露出は極力避けているが、種族を完全に隠し通すのは困難だ。目の前の男のように、誘ってもいないのにふらふらと寄って来る輩は後を絶たない。 
 非常に面倒だが、目を付けられたからには仕方無い。どうせなら利用しない手はないと、出来るだけ冷たく聞こえるような声音で男に尋ねた。 

「あんた、この辺には詳しいのか?」 
「ん? ああ、詳しいぞ。探し物か? それとも、人か?」 
「方々から傭兵を集めてる連中が居るって話を聞いた。オレはそいつらを探してる」 

 エレンの言葉に男はまず驚いて、それから分かり易く嘲笑するような顔をした。 

「おいおい、お前、まさか傭兵になるつもりか? そんな、細っこい身体で?」 

 ついに大声で笑い始めた男に、エレンは特に反応を示さなかった。このやり取りにももう慣れた。探しているのは確かに傭兵集団だが、目的は傭兵になる事ではない。そこに所属しているかも知れないある人物を探しているのだ。 


 この世界には数多くの種族が存在する。「人類」「巨人」「動物」と見た目で判断するような、シンプルな振り分け方ではないのだ。容貌が恐ろしくとも非常に理性的な種族もあれば、美しい姿で暴虐の限りを尽くす連中も居る。群れを作るか否かは各種族次第だが、異種族が寄り集まる事は殆ど無い。習性が違う者同士、群れたところでろくな事はない。 
 故に、エレンが探している傭兵集団は非常に奇異な存在だ。強い力を持った《堕天使》をトップに、数々の種族、それも屈強な者ばかりが集っていると聞く。彼らの目的は不明だ。それだけの実力者を有しながら、支配や蹂躙に乗り出す気配が全く無い。彼らは純粋に身を寄せ合っているだけだ――あたかも、「家族」のように。 

 彼らの噂を初めて聞いたのは、ここから南へ非常に遠い場所だった。それは彼らの力の強大さを示している。だからこそエレンは希望を持った。それ程の猛者の集まりならば、エレンの探し人――前世からエレンが焦がれ続ける、リヴァイ兵士長その人が居るかも知れないと思ったのだ。 

 恋人同士という関係にあった彼の事を、エレンは今世も変わらず愛していた。エレンを呼ぶ低い声も、時に臆病な程優しく触れた手も、常に強い光を宿し続けていたあの眼差しも。その全てを意味深く記憶している。幸せなばかりの人生では決してなかった。それでも彼を瞼の裏に描く時、エレンの心は確かに静かな幸福に包まれた。 
 リヴァイを探そうと決意したのはごく自然な事だった。実際に己がこうして転生を果たしているのだ、彼もまた同じように生まれ変わっている可能性もゼロではない。そうしてエレンは長い間、たった一人で、広大な世界を彷徨いながら彼の面影を探し続けた。 


「その傭兵集団のアジトまで、歩きなら大分かかるぞ。お前みたいなガキの足じゃ、きっと辿り着けないぞ」 
「……ガキじゃねぇよ」 
「へえ。いくつだ」 
「知らねぇ」 
「だろうなあ」 

 俺もそうだ、と男は当たり前のように頷いた。この世界では時間の経過が曖昧だ。何故と言えば、朝がやって来ないからだ。そもそも太陽が存在していない。空は常に青黒い夜に包まれ、一つだけ浮かぶ月はいつも同じ位置にある。満ちる事も欠ける事も無い。それ故住人達は時間というものに無頓着で、自身の年齢すら把握していないのが普通だった。 

「何なら、俺がそのアジトまで運んでやろうか。お前の足よりは、ずっと速いぞ」 
「そんなに遠いのかよ」 
「当たり前だろ。《ニヴルヘイム》の果ては、誰も知らない」 

 ――住人の多くは、この世界を《ニヴルヘイム》と呼んでいる。前世では聞いた事も無い言葉だ。太陽の昇らない夜の世界。人ではない数多の種族。エレンには、ここが前世と同じ世界であるとは到底思えなかった。 
 考えられるのは多重世界の可能性だ。「世界」は一つではなく、同時平行軸で幾つも存在しているのではないか。前世とこの場所は別の世界軸かも知れない。それに気付いた時、エレンは酷く失望した。別の世界が存在するなら、リヴァイが《ニヴルヘイム》で転生している可能性は低くなる。彼は既にどこか別の場所で生きているのかも知れない。そう考えると、エレンは突然大声で泣き喚きたいような気持ちに駆られた。 

 エレンの動揺をどう受け取ったのか、男は猫なで声で距離を縮め始めた。爛々と燃える瞳は、月夜に場違いに輝いている。 

「……オレに近寄るな」 
「そう言うなよ、お前だって欲しいだろ、《淫魔》なんだから。たっぷりイイ思いさせてやる」 
「…………」 

 フードの下で嫌悪に思い切り眉を顰めた。確かに《淫魔》にとって性交渉は食事であり、生きる為の術だ。そして同時に狩りの場でもある。相手は単なる獲物に過ぎず、《淫魔》に強引に迫るのはそれを理解していない馬鹿の特徴だ。そういう輩は始末に悪い。エレンは改めて男を見上げた。かなりの長身で、ずんぐりむっくりした身体を揺らしている。動きは鈍いがその分力もスタミナもありそうだ。 
 やはり面倒極まりない事になったと大仰に溜め息を吐いて、気付かれないよう静かに腹に力を込めた。 

「……ねぇよ」 
「なに?」 
「お前じゃオレを満足させられねぇって言ったんだよ、クソ野郎ッ!!」 

 叫ぶと同時、男の向こう脛を思い切り蹴り上げる。完全に予想外だったのだろう、防御も出来なかった男は呻き声と共に膝を着く。その隙を逃さず一目散に駆け出した。逃げるのは性に合わないが、これだけの体格差では此方が不利だ。それならばさっさと姿をくらましてしまうのが得策だ。 
 相手の目が地面を向いている間に、手近な木によじ登り茂る葉の間に身を隠した。あとは向こうが諦めてくれるのを待つだけだ。気配を殺しながら、エレンは枝葉の間を縫って射し込む月光に目を細めた。 

 ゆっくりと己の身体を抱く。細い手足に華奢な肩幅、肉の少ない薄い身体。エレンは前世とは比べ物にならない程弱々しい存在になっていた。理由は単純、栄養不足だ。《淫魔》は性交渉によって糧となる精気を取り込む。だがエレンはリヴァイ以外と肌を重ねるなど考えられなかった。時折盛り場を流しては漏れ出る精気で食い繋いで来たが、身体は酷い飢餓状態にある。衰弱は顕著になり始め、餓死の可能性も出て来た。それでもエレンは性交渉を拒み続けた。死の兆候を前にしても、リヴァイへの思いは消え去る気配すら見せなかった。 

 ――本当は、分かっている。もうこの恋を手放すべきだという事を。奇跡的にリヴァイもまたこの《ニヴルヘイム》に転生していると仮定して、彼が前世の記憶を継いでいるとは限らない。もしかすると、以前とは似ても似つかない容貌になっているのかも知れなかった。姿形も、心も違う。それは果たしてエレンが愛した「リヴァイ兵士長」と言えるのだろうか。 
 エレンは滲んだ涙を乱暴に拭った。孤独は思考を暗くさせる。諦めるべきだ。もう忘れるべきだ。分かっていて、それでも視線は彼に似た月夜に誘われる。常闇の中に在る唯一の光、その周囲に流れる清廉な空気。霞む青色はリヴァイの瞳を思い出させた。もう、この心は届かないのだろうか。遠い空を見上げ、返事が無いと知りながら、それでも焦がれる名前を呼んだ。 

「リヴァイ……兵長……」 
「見つけたぞガキィ!!」 
「!」 

 突然野太い声が周囲に響く。同時に身体が大きく揺れた。枝にしがみつきながら、眼下を見れば先程の男が木に体当たりをしている最中だった。まだ諦めていなかったらしい。気を抜いていた己への苛立ちも相まって、エレンは怒気も露に叫んだ。 

「いい加減にしろ! 誰がお前の相手なんかしてやるか!」 
「それも誘い方の一つか、《淫魔》のガキめ! 焦らされた分も、たっぷり可愛がってやる!」 
「てめぇ……!」 

 欲望に満ちた視線が這い上がって来るのが分かる。どうやら《淫魔》の気に当てられ過ぎたらしい。ろくに理性も残っていないその目つきに、目眩にも似た怒りが爆発した。 

「……仕方、無ぇだろうが」 
「あ? 何だと?」 
「……忘れられねぇんだから、仕方無ぇだろうが!!」 

 怒号と共に自らの上着を毟り取り、見上げる男の顔面目掛けて投げつける。視界を失いよろめいた男の脳天へ、全力で踵落としをぶち込んだ。地面に転がり落ちた身体を素早く躍動させ、痛みに喘ぐ男の腹にもう一発蹴りを見舞う。景気よく吹っ飛んだ相手にエレンは叫んだ。それは鬱憤を爆発させた、平たく言えば単なる八つ当たりだった。 

「仕方無ぇだろ、好きなんだ、今でも! 忘れられねぇんだよ! いくら死にそうになったって、オレは、リヴァイ兵長の事が好きで好きで堪らねぇんだよッ!!」 

 エレンの大声は谺する事もなく、冴え冴えとした空気の中に滲んで消えた。草原は先程までと少しも変わらない様子で時折吹く風に身を任せている。男は完全に気絶しているようだった。ぜぇぜぇと、荒い息遣いだけが周囲の静寂に響いていた。何もエレンに関心を払おうとはしない。エレンは一人だった。一人きりだった。この広大な《ニヴルヘイム》においてさえ、エレンはやはり異質なものだった。青い月夜は未だ遠く、その事実に虚しさだけが胸の中に広がった。 
 酷く惨めな気持ちで、足元を撫でる風をぼんやりと感じていた。男が回復する前に逃げなければならない。だがよろよろと動き出そうとしたエレンの背に、突然真っ黒な風が叩き付けられた。 

「!」 

 肺を握り潰されるような感覚。耳を裂くような一瞬の風が吹き渡り、後には痛い程の静寂だけが残った。エレンは己の背後に立つ存在に気付いていた。極近くに突如現れたそれは、無言で此方の背を見つめている。凄まじい重圧。身体が内側から震えていた。その気配が持つ圧倒的な迫力と、そこに内包された遠い記憶の名残を、エレンの神経は過敏に感じ取っていた。 

「……随分情熱的な告白だな、エレン」 

 懐かしい声に、今度こそ呼吸が止まる。この耳はその声を知らない、だが魂が知っている。覚えている。エレンは目を見開いたまま、怯える動物のように振り返った。そこに居る彼が掻き消えてしまうのが怖かった。実際殆ど幻を見ているような気さえしていた。 
 少しずつその存在が現実になる。黒い髪、漆黒の外套、首元を飾る白いクラバット。涙で視界が滲んだ。それでもその眼差しは鮮やかにエレンを貫いた。立っていたのはリヴァイだった。エレンが焦がれ続けたその人が、記憶と寸分違わぬ生々しさで、じっと此方を見上げていた。 

「……へい、ちょう……?」 
「ああ」 
「ほん、とに……兵長? リヴァイ兵長……?」 
「他に誰に見えるってんだ。……散々探したぞ。やっと見つけた……」 

 彼の手が頬を撫でた。硬く冷たい手だったが、内側からの熱が確かに彼の興奮を伝えていた。唇が動く。エレン。それが最後だった。体内で何かが破裂したような、衝撃さえ感じる喜びが湧き起こる。頭はもう何も考えられなかった。体当たりでもするような勢いで、エレンは一心にリヴァイに抱きついた。 

「兵長、へいちょう……ッ! 会いたかった、ずっと、ずっと!」 
「生まれて来るのが遅ぇんだよ! 俺が何年待ったと思ってやがる!」 
「迎えに来るのが遅いんですよ!」 
「相変わらず生意気なガキだな……!」 

 感動の再会が殆ど口喧嘩だ。わあわあと子どものように泣き喚くエレンを、リヴァイは文句を言いながらも離そうとはしなかった。骨が軋む程強く抱き締められて、その存在が確かである事にまた涙が溢れた。会えて嬉しいという感激も、寂しかったという恨み言も。彼に出会えたら押し付けようと思っていた言葉は、どれも感情の濁流に呑まれ明確な形にはならなかった。彼の肩で泣きじゃくっているとふいに身体を離され、不満を口にする前に噛み付くようなキスで塞がれた。 

「ん、んぅ……んっ」 
「エレン」 
「ふあ、兵長っ……!」 

 互いを慈しむような、そんな優しいキスではなかった。始めから舌が鋭く突き入れられ、口内を好き放題蹂躙される。負けじと絡めた舌は呆気なく支配下に置かれ、ただ濁った快感だけがエレンの脳に到達した。呼吸さえ許さない口付け。力が入らず座り込もうとした身体はリヴァイの逞しい腕に抱かれ、逃げる事も出来ずひたすらに貪られた。食われてしまうような気がした。微睡みにも似た官能に感覚が溶けるその一瞬前、リヴァイが唐突に唇を離した。 
 無自覚に、蕩けきった瞳は不満げに彼を見る。リヴァイは呆然とエレンを見ていた。理由が分からず首を傾げると、彼は苦々しい顔で尋ねる。 

「エレンよ。お前、《淫魔》なのか」 
「はい……? そうです、けど」 

 それがどうしたと思う前に、一瞬で血の気が引いた。綺麗なものを好むリヴァイの性分からして、《淫魔》の習性を嫌悪している可能性は充分にある。慌てて弁解しようとしたが、頭を抱えて眉を顰める彼の表情に、先程まで燃え上がっていた心臓が胸の奥でそのまま氷の塊になったような心持ちがした。 

「兵長、あの!」 
「……《淫魔》の体液は極上の蜜……」 
「……兵長?」 
「加えて強力な催淫作用がある……くそっ!」 

 明らかに苛立ったリヴァイに思い切り腕を引かれる。瞬きの間に横抱きにされ、ぎょっと彼の顔を見上げた。青白い月光に照らされた頬はうっすら紅潮している。明らかに性的興奮を帯びた顔色に、安堵と同時に別の問題が浮上した事を悟った。キスを交わした事によって、エレンの唾液がリヴァイの身体に作用してしまったのだろう。《淫魔》の身体は媚薬の貯蔵庫のようなものだ。それに完全に当てられたらしいリヴァイは、抗い難い肉欲を瞳の奥に滾らせていた。 

「屋敷に戻る。全速力で飛ぶが、落ちるんじゃねぇぞ」 
「飛ぶ!?……って兵長、そう言えば種族は」 

 見上げた彼が、エレンの問いに答える為薄く唇を開いた。そこに聳える鋭い牙に背中が震える。 
 漆黒の風が吹き荒れる。目を瞠ったエレンは、それが風でない事に気付いた。それは巨大な一対の翼だった。なめし革のように艶やかな黒い羽根。身体が宙に浮いたと同時、彼は淡々と答えを口にした。 

「――《ヴァンパイア》だ」 

 感想を抱く間も無かった。突然の圧が全身を襲い、思わず目を瞑ったエレンが高速の飛行移動に気付いたのは、暫く経っての事だった。 



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